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こんなことしてる場合か、行政書士試験の勉強の合間と思ってたら、ブログしたりブログみたりで、勉強が合間になってしまってる。
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ニックネームサイコ
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誕生日11月30日
血液型A型
紹介文なんの取り得もなく、うかうかと40過ぎまで生きてきてしまい、いろいろな悔いとともに悪あがき的に行政書士、社労士を目指し、昨年、今年と試験を受け見事に不合格(*´д`)=з 現在、社労士試験リベンジ中。
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2010/12/19 23:35
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2010/12/19 23:35
ビジネスブログ100選   士業  (弁護士、会計士等)   現在 56位


前回ブログを起こしてから2か月以上あいてしまったのであるが、例によって行政書士試験があったからということもその理由であるが、最もショックであった理由は、先月末の母親の他界である。まずもって、スピノザを書いた後である。癌の転移により母が入院した。入院当初はそれほど深刻な感じを持ってはいなかったのであるが、10月に入るとトイレに立つこともできないようになって、ベッドに寝たきりになってしまった。ただ、意識だけはしっかりしていたので、医者が言うように年内までは余命があるものと、変に楽観していたりもしていた。11月に入り、その意識も虚ろになりがちになってきた。毎日は様子を見に行くことができなかっかのだが、日に日に衰えていくのを見ていて忍びなかった。そんな途中で、行政書士の試験。言い訳にしかならないのだが、社労士試験が終わったのが8月末で、その2週間後に母の再発が発覚している。母の病状を思う不安も当然ながら、母の不在による生活環境の変化は既に始まっていたのである。そんな中で、そうした不安や現状へのストレスを解消するがために、行政書士試験の勉強をしていたつもりになっていただけなのかもしれない。現実から逃避するための手段としての勉強。当日の試験は、時間配分が悪く、一般常識に全く時間を割くことができず、今回もまず不合格であろう。そして、意識なく、眠るだけの日々が1週間ほど続き、11/23勤労感謝の日の夜中に、「血圧が下がっている」ということで親父が病院から呼び出された。その日は、取りあえず何事もなく数時間して親父は家に帰ってきた。そして、次の日も、次の日も、朝に病院に様子を見に行っていたのだが、ついに、心拍が停止した。いつかくるその日は、分かっているとはいえやり切れない思いしかない。そして、もっと元気なときに何かしてあげることがあったのではないか、もっと安心してもらうことができたのではないか、と悔やむことばかりである。ただ今は一言。母さん、ありがとう。


2010/10/06 05:23
ビジネスブログ100選   士業  (弁護士、会計士等)   現在 15位



ポストモダンの共産主義    はじめは悲劇として、二度めは笑劇として   スラヴォイ・ジジェク

最近まで読んできた本に、ちょくちょく出ていたので名前だけは知っていたジジェクなのだが、これは正しくコミュニズム系のタイトルであるし、ジジェクはバリバリのマルクス主義者であることはこれを読むだけでも知れる。この本が新しいのは、マルチチュードあたりでも既に5年前の本で、アメリカのイラク制圧あたりが主題となるのだが、「ポストモダンの共産主義」は、2年前の世界金融危機後を捉えて語っているので、その点で現在性のただ中にあると言える。まぁ、要するに、1990年にソビエト崩壊で社会主義、共産主義は終焉し、バラ色の資本主義の時代であったはずなのであるが、2年前の金融危機が示したものは、リベラル民主主義、資本主義も破綻しているのだ、ということである。そこで再びマルクスから始める〈新しい共産主義〉を理論構築していくということのようだ。書評には「今こそ資本主義イデオロギーの虚妄を白日の下にさらし、世界を真に変革へ導く行動原理を、新しいコミュニズムを語るべきだ。ジジェクが、この10年の混迷を分析。21世紀を生き抜くための新しい革命思想を問う。」とあるのだが、その全く新しいコミュニズムとは言いつつ、共産主義者レーニンが登山のアナロジーで語った言質でもって、「登頂に失敗したとしても、再び上り始めるのは同じく麓から」であり登頂にしくじったとしても、いかに巧く負けるか、そして再び同じ地点からのスタート、と言っているので、書評にはやや誇張があると思っていい。さて、ジジェクのプロフィールを読んでて、スロベニア生まれって、スロベニアはどこの国なのか? と思ってた。旧ユーゴスラビア連邦の一国で、ソ連崩壊後の東側共産主義国の一連の独立の中で誕生している。クロアチアやボスニア・ヘルツェゴビナはなんとなく知っていたのではあるが、その隣国ということである。そうした国の資本主義化にあって、政治においてもリベラルや原理主義など〈イデオロギー〉の対立の中で様々な事柄を見聞きしていただろうことは想像できる。そうした意味も含めて、ジジェクは実践派であり時代への感応の早さというのは、そうした生きる経験によっているのに違いない。まぁ、だからということでもないのだが、ネグリのようにロマン主義ではない。というか、ジジェクがこの本の中でネグリ等をやや批判っぽく書いているのだが、ヘーゲルを極力排除してカントの図式化に堕しないよう、マキァヴェッリを踏襲したスピノザを引用した概念としての〈マルチチュード〉、には〈スピノザの愛〉というロマンを見てとっているのだ。その〈愛〉だけでは足りない、新たな〈イデオロギー〉を起てることが〈ポストモダンの共産主義〉なのである。そしてこのポストモダンというのも、それこそ1990年以前の思想的潮流のことではなくて、歴史の終焉が言われてからの現代、の次である今を言っているようである。まぁ、ポストモダンの命名者であるリオタールには多少触れていることからも、その〈時代〉のモダンとはサルトルの〈時代〉としての現代であったものを、社会主義国家の崩壊後の資本主義国家の破綻までを新たに現代と意味づけて、そのポストとしての今に再びマルクス主義からやり直す、ということである。まぁ、中国の資本主義化のことや関連してマオイズムについても書いているが、端折って、新たな知の囲い込み(エンクロージャー)によって、いわゆる生命特許をある特定の営利団体、会社組織が独占する現在の危機について触れているのであるが、これはマルチチュードでネグリが言っていたことでもある。これについては、ジジェクも賛同しているのであるが、これは例えば、ある特殊な病気の患者に由来するDNAの形態を、その個人のものとする特許ではなくて、それを発見した研究チームのものとして、しかもその研究チームの所属が営利を目的とするバイオビジネスの企業において特許として登録されることに対する懸念である。個人由来のものであるにも係わらず、その患者は特権的にではなく、通常の患者と代わらず、それ以上に特殊な治療を受けるため高額な医療費を支払わされる矛盾のような現状のことである。ここに一つのヒントとして、そうした公共性における治療法という知識が、特定人あるいは特定の団体が独占するという知的財産権として確立している資本主義の根幹に対する告発である。そうした公共性において公共的に享有されるべき知識については、特許というシステムではなく公共物としての管理が妥当だとする見方なのである。これが、ジジェクの思考する〈新しい共産主義〉の一つの根である。そして、ジジェクがある意味でシニシストである所以であるラカン派(フロイトの大義派)でもあるところから導かれる線は、やはり公共性という〈大文字の他者〉である。この本ではあまりラカンの影を見ることはできないが、概念的に用語だけはパラパラと使ってはいる。まぁ、それに留まるだけではあるが、そうした遺産やラカン的な方法は使われているような気もする。例えば、詳細はしないがリベラルと原理主義を横軸に、ポピュリズムとエリーティズムを縦軸にしたポジショニング・チャートを作り、極右、極左的な立場でもそれが大衆的か先鋭的かでまた構造が違ってくる、というような4つのパターン化で表現というか論証していたりするからである。まぁ、兎も角も、2年も経たない早い段階でスロベニアの哲学者の翻訳を読むことができるというのも、日本においてグローバル化の僅かしかない利点のひとつであろう。日本において現状、哲学書のような本はそれほど売れないだろうし、ましていきなり文庫本形態で出てくるというのも経営的にはメリットが少ないわけで、このスピードで翻訳書が出たことだけでも奇跡のようにも思える。まぁ、知の拡散においても、公共性を優先順位として私的な財産蓄積を目論まずになされたこと、というべきか。ただ、世界金融危機を共産主義の好機ととらえて、まさにイデオローグするためという野心も無くはないだろう。なぜならば、同じような速さで、リベラリスト的な扇動者の危機に付け入るやり方も後を絶たないからである。その防止あるいは抑止として、また真の対処療法として〈ポストモダンのコミュニズム〉は要請されるはずだからである。





2010/09/25 13:37
ビジネスブログ100選   士業  (弁護士、会計士等)   現在 14位


日本と戦う

日本と戦う

価格:1,680円(税込、送料別)



タイトルこそ何やら例の尖閣列島問題でやってる中国の恫喝みたいに思えるのだが、非常に濃い論壇人と政治家による鼎談集である。そして、その一人、鈴木宗男氏であるが、数日前に刑が確定してしまった。これによって議員を失職、刑期終了後5年間は立候補できないことになってしまった。なんとも惨いことである。実質的に政界から締め出されてしまった感じである。しかし、ここはなんとか後継者に踏ん張ってもらって、再び北方領土の解決も含めた外交の底上げを図ってもらいたい。
しかしまぁ、この鼎談は実に内容が濃い。「国策捜査」の話からタイトルである「日本と戦う」というその日本とは、東京地検特捜部を発端とする現在の「日本」の司法システムと戦うというところから始められているのである。そして、概ね政治家鈴木宗男という実行力(それは権力でもあるのだが)が何に由来するか、その比較としての4年前当時の政治家の現状を批判(諦観)しているのだが、例の西部邁が仕切り役とでもいうか、かなりの部分を喋っている。それで鈴木をよいしょ、してるわけでもないけれど、今の政治の劣化を嘆いているわけである。現在の政治的状況と「戦う」ということである。そして、例の宮崎学である。宮崎はここではあまり喋らせてもらってないみたいだけれど、要所で濃いことを言ったりしてる。まぁ、それこそ4年前の話なのだけれど、今の尖閣列島の問題にも通ずる現代日本への問題提起である。
前に国家の罠佐藤優国家の罠を紹介したのであるが、この「日本と戦う」でも国策捜査がどのような背景からでてくるかを書いている。鈴木宗男というケインズ型公平配分方式の社会から小泉純一郎というハイエク型傾斜配分方式の社会へとパラダイムが転換されたことで、旧態を巨悪として排除するためのものと。しかし、この「国策捜査」なるものも、地検特捜部の暴走という綻びが出始めている感じである。例の郵便不正事件では、厚生労働省の村木厚子元局長の無罪が確定しているが、こともあろうか特捜部検事による証拠品の改竄まで行われていたらしい。さて、これについて例の佐藤はこのように書いている。まだ、次元としては運不運ということであるが、というか不運と思うよりも仕方ないことなのであろう。
さて、同じく尖閣で捕まった船長の釈放についてはこのように書いている。さすがに元外務官僚だけあって、何が国益となるかを弁えている。目先のことだけで、穏便に済ましてしまったことは、この先例に倣って中国の増長はエスカレートするに決まっている。しかし、情けないのはやっぱり総理初めとする閣僚の劣化と外交関係を処理する外務官僚の劣化であろうか。もし、仮に未だ鈴木宗男と佐藤優が権力側に跋扈していたならば、今回のような弱腰とはならなかったのであろうか。外交は仮定の話ではない。現実の交渉の場であるはずである。うーん、こんなよぼよぼした日本なんて護るほどの価値があるのか? と諦観がまたま過ぎる。だから、そうした「劣化」と戦うということなのか。アンチエイジング、ということだ。





2010/09/07 07:02
ビジネスブログ100選   士業  (弁護士、会計士等)   現在 11位


エチカ抄  佐藤一郎 編訳      スピノザ 実践の哲学  ジル・ドゥルーズ


エチカに限らずスピノザの視点は、あくまで神は絶対視しても超越的地位を与えているわけではない。神はそこ、に存在しているのだ。そこにあるとは、所与としての自然、宇宙に対して人が覚知できるその全体を形成しているということである。ここで慎重に「人が認識している以上に」とか、「超えて」ということばを使用せずにおかなければならない。なぜならば、認識する人自体が、その宇宙、実体(神)の一部であるからである。しかしながら、〈人〉は有限である。時間的な意味〈死〉でも空間的な意味〈身体〉でも限られた世界しか認識できない。人(実体の一部)は実体の一部しか認識することはできないのである。そして、その認識の正しさは神から受け(受動し)ているのであるが、それは各人各々の神への働きかけ(能動)によって認識されるのである。まず、第一種の認識という段階。人の身体の延長としての運動と静止にあって、混然としている状態、様態を不十全に把握している段階。人が個物(または自己ではないもうひとつの身体、他人)と出会うとき、なにがしかの影響を受けることで人は変容する。それはよくも悪くもである。いいことが増えるばあいは、喜びが増すことであり、愛が満ちるということであり、力能が増すという能動的な様態である。悪いことが増えるばあいは、憎しみ、悲しみであり、力能は減じられ受身的な様態となる。この悪しきものを減じること、そのために、人は「共通概念」をもち互いの力能を集めたよりよい人工的な自然(社会)状態、様態を作らなければならない。ここまで、もっともらしく書いてきているのだが、「エチカ抄」は何故か非常にとっつき難い本であった。その理由の一例をあげてみよう。エチカ第2部の命題13は「人間の精神をつくり成している観念の対象は体である」と訳されている。ウィキペディアで解説されている部分を抜粋すると、
 スピノザは、「人間精神を構成する観念の対象は(現実に)存在する身体である」と宣言する。なぜなら、「延長する物および思惟する物は神の属性の変容である」以上、二つは同じものの二つの側面に他ならないからである。これによって心身の合一という我々の現実的なありかたを説明できる、とスピノザは考えた。精神の変化は身体の変化に対応しており、精神は身体から独立にあるわけではなく、身体も精神から独立となりえない。身体に先だって精神がある(唯心論)のでもなく精神に先だって身体がある(唯物論)のでもない。いわゆる同一存在における心身平行論である。
となる。「構成する」を「つくり成している」という具合に訳してあり、そうした部分は随所にあるようなのである。「つくり成している」の方が分かりやすい人の方が多いとも思うのでもあるが、サイコとしては漢詩的に「構成する」と書かれていたほうが、逆に読み慣れているようなのである。後、〈神〉というものを信じない、真の無神論者であるサイコなので、スピノザは無神論者だというのは嘘だったことに気づき、かなりの違和感を抱きながら読まざるを得なかったことも障害であった。なのだがこれが不思議なことに、ドゥルーズの解説はすんなり読めて、それを糧に抄の方を読むと、それなりに理解はできてきたのである。そして、抄としているので全文を訳しているわけではなく、第1部、2部、5部は全文、第3部は「命題」13の備考まで、第4部は「命題」8の論証までが訳されている。方やドゥルーズの方は、第3、4、5部にあたる部分を中心にして解説しているので、双方は補完しあっているような具合である。後、心身並行論は、平らではなく並が両方ともに使われているが、「並」は学際的な使われ方か、平らの方は論文からはあまり見かけないけれども、レビューの方でよく見かける。まぁ、どちらが正確なのかは今一わからないけれども、訳出する人によっての違いなのか。因みに、平行は「どこまで行っても交わらないこと。」、並行は「並んで行くこと。並んで行うこと。」なので、デカルトの身体合一を前提にしているところからも「並」の方が意味はあっているように思う。後、抄の方は「命題」としているが、一般的には「定理」のようである。まぁ、細かなところでの齟齬で躓いてしまっては、それこそ本丸であるスピノザにたどり着けないわけであるので、そうした〈わるい〉ところは避けながら、〈いい〉ところを能動的に読まなければならないのである。だからといって、抄の訳出が〈わるい〉わけでは決してない。サイコの第1種の認識からの情動に何らかの敵対的な野心が潜んでいるために、それの理解を妨げているだけなのである。そして、第2種の認識によるある意味での克服を「力能」により止揚することにより、共通概念を持ちえたわけである。訳者の限りなく日本語に迫ろうとする努力は、訳注及びあとがきから窺い知れる。つまり、スピノザは「エチカ」原文をラテン語で書いていて、生前には出版できず、死後「遺稿集」の中に収められるのであるが、その発刊後にカール・ゲープハルトによる「オランダ語版遺稿集」が別に発刊されているのだが、オランダ語版にはゲープハルトが解説的に挿入した異文や独立した間違いがあったりするのではあるが、それを訳者である佐藤氏は底本にして、ゲープハルトの異文のいちいちに判断をつけている英訳者カーリーの英語版の注釈を参考にしつつ、スピノザ研究者の成果を参照して、ケープハルトの異文はすべて取り除いているからである。これは、ロマンス諸語の大基となるラテン語からインド・ヨーロッパ語族の西ゲルマン語群に属するオランダ語に訳されたときの誤謬を除き、ゲルマン語派に属する英語によって更に訳されたものの注釈を参考に、ロマンス諸語に属するスピノザ研究者たちの成果を参照しつつ、日本語族という世界でも特殊な言語に更に訳するという作業なのである。さて、ちょっと言語的なこだわりなのだが、ドゥルーズの訳本の方に戻ってみよう。フランス語もインド・ヨーロッパ語族のイタリック語派に属するロマンス語のひとつで、ドゥルーズは当然フランス語でスピノザを解説している。その訳者である鈴木雅大氏が、この平凡社ライブラリー版に収めた付論がある。「の変様、の観念-----スピノザの内態の論理」であるが、ここで再帰動詞について語られる部分がある。再帰動詞(代名動詞)とは意味上の動作主と被動者が同じであるような動詞をいう。さて、バンヴェニストが、「能動・受動」に代えて動詞のプロセスとその動詞の主辞とのあいだの位相関係をもっとも的確に表す文法概念として「外態・内態」を提唱した。主辞の表す動作主体がそのプロセスの外部に立ち、プロセスが「主辞に発して主辞の外でおこなわれる」かたちでとらえられる場合を外態といい、反対に主辞の表す動作主体がそのプロセス自身の内部に立ち、プロセスが「主辞(sujet)がプロセスの(主体sujetであるというよりむしろ)主座(siege)である」かたちでその展開のプロセスがとらえられる場合を内態という。おおまかに総括すると、スピノザがプロセスとするものは神への働きかけ(能動、力能)であり、それが主語としての位置を占める。そして、もうひとつのプロセスとしては神を一義的に原因として結果、人が観念を持つという捉えなおしの連鎖である。外への働きかけを常に既に内在化する連続として、そのプロセス自体を主語化すること(動詞の人称化=再帰動詞)が内態でる。内在化の論理の連鎖、切断が内態の論理ということとなる。

さて、現代は超越論である。それはフロイトにおける無意識の発見により、迷い込んだ迷宮のようでもある。同時にニーチェが宣告した神の死により、神を実体とすることが不可能となったことでもある。少しドゥルーズに立ち戻ると、フロイトを知ってしまった後の哲学者たちは、スピノザの第1種の認識における不十全な観念を不十全に潜在する意識(無意識)として意識化するしかなくなってしまった。スピノザにおいては不十全の観念は無でも外でもなく、敢えて言えば無知なだけであった。無知ゆえに理性に到達できない人々を教会という抑圧組織により支配すること。スピノザは神を信じていないわけではない。むしろ、教会に帰依する者たちよりも信仰心は篤かったのではないか。その情熱は、当時の教会の戒律に馴染まないということをもってのみ、保守的な側から棄却されただけなのだ。そこに本来の自由、だからといって勝手気侭ということではないエチカ(様態の倫理学)をスピノザは逆に保守していたのだ。しかしながら、最早、神に立ち戻ることはできない。現代においても第2種の認識は共通概念から定義することができる。しかし、第3種の認識は神抜きで可能なのだろうか。例えば、神=実体=自然であったならば、自然(あるいは宇宙)と置き換え可能だろうか。
 第2種の認識は共通概念によって定義される。共通概念とは、構成関係の合一・形成〔の認識〕であり、合一を見る構成関係のもとに個々の存在する様態間の出会いを秩序立てようとする〈理性〉の努力である。受動的情動は、この共通概念自身から生じる能動的な情動によって、ある場合には裏打ちされ、ある場合にはそれにとって代わられるのである。しかし、共通概念は、抽象的な観念でこそないが、まだ一般的な観念で、どこまでも存在する様態にしか適用されず、まさにその意味ではこれは、個的・特異的な本質そのものを私たちに認識させるものではない。本質を私たちに認識させてくれるのは、第3種の認識である。そのときはもう属性も、すべての存在する様態に適用されうる共通な(すなわち一般的な)概念としてとらえられるのではなく、属性がその本質をなしている実体にも、属性がそれを個的・特異的な本質として包容しているすべての様態の本質にも、そのまま共通する(すなわち一義的な)形相としてとらえられるのである(「エチカ」5部定理36備考)。私たち自身と、神と、他のもろもろの個物と、この三者の十全な観念をひとつに結ぶ三角形が、第3種の認識を象徴的に表している(「スピノザ」P169)。
第3種の認識において神は抜きがたくある。いや、エチカ全体として神は抜きがたい。第3種の認識は断念するとして、エチカで未だ有効であるものは自由への意志、抑圧からの解放を含めた自由となる力能の実践であるのだろう。


2010/08/29 09:09
ビジネスブログ100選  士業(弁護士、会計士等)  現在 11位



えー、なんか知らぬ間に社労士試験は終わってしまって、ぼーーーっと、1週間が過ぎようとしてる。まぁ、新たにカウントダウンしているように、行政書士試験まで77日ほどしかないわけであって、ぽーーっとしている暇はないはずなのであるが、兎に角、今週はぼーっと過ぎてしまった。思い立ったように、またぞろブログも書き出しているのであるが、社会派ブログとして例の行政裁判を模索していながら、結局、時間切れで断念することになってしまった。「時間とカネ」が無いということは、庶民にとってほんとうに足枷である。行政の不当を糾弾していかなければならないのではあるが、そうした限界が常につきまとうわけである。ああ、だからもう少しメディアはましなことを書いて欲しいのではあるが、劣化といってもいいほどに、弱小ブログと大差ないことを書いたりするメディアもあったりするわけである。民主党の代表選に、小沢一郎前幹事長が出馬の意向を表明したことに対する各紙の比較とでもいっていいこの記事であるが、「政治とカネ」の問題に決着がついていないことに対して、朝日は「あいた口がふさがらない」らしいのだ。まぁ、大方、庶民の真意を代弁しているには違いないのだろうが、一応メディアなのだから、呆れてるだけではどうしようもなかろう。それを思うと、この記事のように読売の客観的な視点はメディアとしての最低限のわきまえ、のように思える。メディアにおいての感情的なものいいは、扇動に繋がるある種の罪を秘めていないか、と思うのだが。しかもポピュリズム的な迎合性を思うと、決してサイコはネウヨではないのだけれど、左よりの朝日が、大東亜戦争時に犯した戦争賞賛報道の体質のまま左的に捻じ曲がっただけで実はその報道体質を伝統として保守しているのではないかとさへ勘ぐってしまうのである。まぁ、だからといって産経がいいと言うつもりもないのだけれど、最近は穏健的な読売から題材をパクってくることにしているのだ。
まぁ、「政治とカネ」の問題に決着がついていないのではあるが、あるリミットとして一般庶民のサイコの「時間とカネ」の問題は決着してしまった。実際、小沢さんあたりから〈カネ〉の支援があれば、間違いなく行政訴訟起こしていただろう(*´д`)=з 時間はもったいないので、弁護士先生にお願いするとしても、その訴訟の経過はじっくり研究するに値したであろうし、まぁ、滅多に無いチャンスではあったけれども、断念(*´д`)=з まぁ、過ぎてしまったことをいちいち思ってみても始まらないわけで、兎に角、次なるは、4回目のリベンジとなる行政書士試験である。まぁ、そういうことで、再度、例のエールで気合を入れることにしよう、なのであるが、うーん、ちょっと虚しいといえば虚しいのであるが、東京新聞にこんな記事が載っていたのでちょっとコメントしてからにしよう。代表選は党内部の問題といえば内部問題ではあるが、与党の党首が基本的に総理になるわけで、そうとも言ってられないわけなのだけれども、菅さん支持が7割、小沢さん1割5分に比して圧勝としているのだけれど、小沢さん支持がそれでも15%いるというのも事実。菅内閣支持率が20日前から比べて9ポイントほど上昇して、不支持も9ポイント弱減っているので、不支持から支持にそのまま乗り換えてる人が大半なのか、ということである。国民はそれなりに菅総理に期待しているわけなのだけれど、それでもやはり代表選は党内で決せられるわけで、民主党員以外の庶民は蚊帳の外なのである。党員以外も国民なのだ、ということを小沢さんはわかっているのだろうか。なんだったっけ、「国民の生活が第一」だよね。まぁ、この辺にしておかないと朝日化しそうなので、例のエールを。

信じることさ 必ず最後に愛は勝つ。 YES! WE! KAN!



2010/08/09 17:15
ビジネスブログ100選  士業(弁護士、会計士等)  現在 13位



とあるカフェで、上品に香りたつコーヒーを味わいながらブログを書きたいところであるが、まぁ、試験も近いことだし、殺風景な自宅で、株主優待で届いたIT〇〇の缶コーヒー(タリーズコーヒー)を飲みつつ、取り敢えず前回の続きのような感じで。
お役所仕事はお役所なのであるが、ご長寿の健在を確認することは懈怠しておきながら、政治家のスキャンダル探しには躍起のようである。まさにこの記事の最後に「組織防衛に必死な役人ども。他人のスキャンダル探しをするヒマがあるなら仕事しろ!」とあるのだが、同感である。なのであるが、ここで露顕してないのは、その醜聞が知らされるのは雑誌メディアによる、ということである。いや、そんなのわかってる、と言われるが、「メディア」とは国家権力と別種の暴力を持つことによりぎりぎりまで国家と対峙するはずのものが、国家の暴力に利用されていると言うことである。いや、そんなのわかってる、と言われるかもしれないが、こうなると「メディア」は別種の権力を選択して行使しているだけに見える。いわゆる恣意によって攻撃するものは、国家権力であるときもあり個人であるときもあるということである。さて、政治家というのは公人である。個人ではあるが、遥かにそれを超えて国家権力に近い存在である。このカオスな存在を攻撃対象とするということはどういうことを意味するのであろうか。わかりやすくするために、組織だけに限らないのだけれども、国家という幻想共同体を実効的に運営するためには、行政(官僚)という組織体が必要である。その行政の肥大化をけん制するために立法(国会)と司法(警察)という組織体がある。国家権力もこうして三権に分立することで互いをチェックする機能をも持たされているのであるが、どの組織、民間の会社組織もしかり、組織体の意思決定のために長が存在する。組織というピラミッドの頂点に長が存在するのであるが、ピラミッドの階層を順番に降りていくごとにも、派閥的に小さなピラミッド集団が存在し、やはりそこにも長がいて、意思決定を行っている。官僚の場合は上意下達のごとく、大なるピラミッドを細分化すれば同様なピラミッド組織でしかないのであるが、国会(立法)においては現在の捩れが象徴するごとく、様々な意思決定集団を「数」において序列化しているだけであるので、少数派においても発言することにおいては平等的であり、多数派や主流派(取り敢えず今は民主党ということで)の戦略との合致があれば「数」の論理を超える可能性はある。まぁ、最終的には「数」の論理でしかないのだけれども、様々な考え方の集団によるカオス体とも呼べるべき組織体なので、官僚組織体的な細分化は不可能である。ただ、そうした政策集団としての政党においても官僚的とまではいはなくてもピラミッド構造自体は同様である。さて、そうした三権分立において、官僚(行政)と政治家(立法)がけん制を超えて対立することも、国家という暴力構造内でしばしば起こりうるだろうし、一方がかなりドラスティックな改変を強制しようとするときには、抵抗はもちろんのこと、封じ込める以上の反撃もありうるだろう。まぁ、大きな国家組織内での内輪もめ的にしか下部構造の市民には見えないのだけれども、その上部構造の行動をチェックするという大義名分でもって「メディア」はそこに不穏な動きがあれば〈真実〉を露顕させるのである。さて、それは〈真実〉ではあるのであるが、それが国家の暴力、事例では官僚の暴力に利用される場合には、〈真実〉は正しさを超えてしまっているのである。正しくない、ということではなく、この「超えてしまう」ことで正義の絶対化によって他の正しさを無効化してしまうということである。潜在する僅かな正しさは、場合によっては不正と捉えられてしまうことにもなる、ということである。「メディア」は象徴的に事件を取り上げることが仕事である。知らせうるべき事件にも序列があり、その序列化の末に僅かな正しさは隠蔽されていくのである。さて、政治家というのは公人ではあるが、商売的には個人名を看板にしているので、官僚という組織内での一公務員という商売をしているわけではない。だから、例えば、元首相の息子である県会議員が逮捕されるなどということになると、もう二度と政治家として商売できないということである。この場合は、列記とした犯罪であるからして、同情の余地はないのであるが、犯罪を犯したわけでもなく、公の利益にもそれほどなりそうもないことでもって、公人としてではない政治家の個人的なスキャンダルを垂れ流す「メディア」がある、のである。そこには国家権力の不正を暴露するという大儀はあるのではあるが、一方の国家権力に加担する正義などは〈真実〉としても、やはり最早正しさを超えてしまっている。まぁ、捉えるほうの市民も、面白半分で読んでしまうのではあろうし、大「メディア」が発行する週刊誌というのも、商品であってそれ自体は情報でもなんでもないわけであるから、単に買わずに立ち読みするくらいが上等だとは思うのだが、まぁ、俎上に挙げられた政治家はたまったものではないね。







2010/08/01 00:54
ビジネスブログ100選  士業(弁護士、会計士等)  現在 17位


いやー、ぼちぼち顕在化するニュースかと思っていたが、やっぱりでてきた。足立区で最高齢のはずの加藤さん(生きてたら111歳)が実はもうとっくに亡くなって30年ほど経っていた、という話しである。今回は息子が本人になりすましたわけではなく、即身成仏として放置されていたのではあるが、そのことも重大な問題ではあるが、「生きているものとして」家族が年金をネコババしていた事実も更に重大問題である。とあるテレビ番組で言っていたことなのだが、本人になりすまして年金を不正受給するケースは、長寿国日本において出るべくして出てくるだろうということであった。しかしまぁ、そんな仏さんとひとつ屋根の下で生活し続けていたというのは異常極まりない。どんな宗教上の理念に基づいているのかは知れないけれども、現代人としては、死人とともに寝食するのは葬式くらいのことであろうと思われるのだが、それが常態化してしまうという感覚の麻痺は、ただただ気味が悪い、気色悪い。まぁ、こういうことこそ、不遜であり不尊なのであろう。そして続報としてこういったなりすまし、名ばかり高齢者は潜在しているということである。まぁ、それにしても足立区というお役所はお役所である。もっともらしい言い訳をタブロイドに書かれてしまっているのだが(まぁ、そうコメントすることを見越して書いているのであろうが)、住民票上のことでならば、今回は死んでた場合なのだが、じゃ、ママが出生届け出さないママだったらどうするのか。東京都の区は特別区という行政区分で、市町村と同じレベルでの行政を取り仕切る。区長は、まぁ、市長並みの権限をもっているわけなのだ。まぁ、ここで行政の懈怠を云々しても始まらないのだけど、足立区民で、要は税金で高齢者事業給付金なんか賄われているはずなので、いわゆる住民訴訟なりで、担当職員の業務差し止め(要は異動させろ願)と不正支出(ほんとは不正受給なんだろうけど)による損害賠償(国家賠償に匹敵するものね)を提起してもらいたいものだ。けど、思い出してしまった。そういえば、サイコは〇〇県警相手に違反の不存在を提起する訴訟をするはずだったんだ。うーん、まぁ、だから訴訟はハードルが高いとして、足立区の市民団体あたりは監査請求くらいはしてもらいたいものだ。それと、30年も発覚しなかったことから押して、50年くらい前であれば、ご近所の〇〇さんどうなった、なんてことからすぐその健在は顕在することと思われるのであるが、地域との密接性が変にプライバシー保護という形で隔離されてしまっているから、今回のようにずるずる見つからない事態になってしまうのだろう。それこそ戦時下の隣組みたいな共同監視体制を引けと言うわけではないが、ご老人に対してだけでなく、出生届出してたとしても幼児の虐待やそれこそ放置、なんていうこともありうるわけであるから、地域住民の安念のためにも机上の事務を超えた現場協力体制みたいなのも各自治体には必要になってきているのではないだろうか。それと、最後に、報知以下各メディアよ、率直に今回の件についての都知事の見解を取って来い!

まぁ、次は存在を賭けたのであるが、「労働の組織化」にあって、資本をいかに活用するかの戦略のなかで消えていく存在である。まず、三洋電機は能天気に、「お米からパン」を作るホームベーカリーGOPANを開発した。しかし、こんな画期的なものが、後半年で「SANYO」ブランドとしては販売されなくなるのである。一昨日、パナソニックは、子会社である三洋電機を完全子会社化することを発表した。これによって、来年度からは全てパナソニックというブランドになってしまうわけである。まぁ、こうなるとこの「ライスブレッドクッカー」を「SANYO」ブランドとしてのプレミア付きで買うのには、10/8に家電量販店に並ぶか、ネットショップで買い占めて、オークションで売り飛ばす、ということになろうか。まぁ、そんな余談はさておき、パナソニックは9000億円かけてTOBするということなのだけれど、その調達コストの半分を株式の増資で賄うため、先読み筋によってパナソニックの29日の株価は暴落であった。反転、30日は+65の1142円で引けている。今回、順張りで売っていたサイコはまたもや大負けである(*´д`)=з まぁ、長い目でみれば、「SANYO」の宣伝広告費は当然浮くわけであるし、と言っても05年の数値なのだが宣伝広告費は約150億円なので、まぁ、親会社にとっては微々たるものか。でも、「SANYO」の去年度の経常損益が300億円くらいだとすると、半分ほどに損を圧縮できるような計算であるから、それだけでも子会社としては助かるような感じである。まぁ、それと三洋の市場シェアをゼロ化して、そこに統一パナソニックというブランド戦略を仕掛けるわけでもあるから、市場占有率アップ=経常利益増ではないにしても多少の寄与は期待できるということか。まぁ、後は、資産の切り売りで9000億円をチャラにしようということだろう。それでも軒並み、格付け会社による社債のランクは下げられていたりするのに、日経平均も下げていたのに昨日は大幅反発である。わからん。まぁ、兎に角、「SANYO」ブランドは家電売り場から消えてなくなるわけである。まぁ、三洋電機といえばエネループで息を吹き返したかにみえたのであるが、パナソニック傘下に入って、結局美味しいところを持ってかれたことになる結果のように思う。まぁ、上述の「ゴパン」なんてのはほんとに最後っぺ的な粋を感じてしまうので、ついつい最初に紹介してしまったのであるが、企業の生き残りというのも実際厳しいということである。うーん、いやおぼろげに不安の雲を思い描いてしまっているのであるが、景気のてこ入れをなんとかして欲しいものである。しかし、国会は空転するのか? 何か新しい充電方法を編み出して欲しいね。

そして、この夏消え行くものがもうひとつある。菅内閣か、社民党か、はたまた自民党か、という高度な次元ではない。あの日清ラ王である。サイコも発売当初は、よく食したものである。生タイプの麺というところがこだわりとしてあったのだが、まぁ、普通のカップ麺の2倍くらいのお値段なので、スーパーで買い物するようになって、安売りしているカップ麺を買い溜めするようになってから、食指が遠のいた感である。それこそここ5、6年はカップ麺自体を食べなくなってもきているのであるが。そのラ王追湯(ツイートウ)式典が今月半ばまで行われるらしい。まぁ、タブロイドの最後の記述は粋である。「ラオウ(ラ王)が死して、悟飯(ごはん)が生まれる」なのだが、ごはん、とはカップヌードルごはんである。まぁ、レンジでチン商品であるが、時代とともに手軽さプラス味も進化するということなのか。

そして、双璧のタブロイドの雄のもう一方が論じるところ、今衆院を解散して選挙してもやはり自民党は勝てない、ということらしい。誤判(ごはん)か、と思ったのだがかなり説得力はある。先の参院選挙で自民党は大勝したわけではないということである。まぁ、民主党の退廃であっただけなのか。衆院選になるといわゆる小選挙区制なので、リテールで自民はせり勝てないということなのだろう。うーん、消え行くのは自民の運命なのか。まぁ、菅内閣の方が先に消え行く可能性は高いような感である。それこそ読売新聞の誘惑に乗せられて、衆院解散なんてのはやらないとは思う。来年は統一地方選挙も控えているわけであるし。ただ、小選挙区とは若干ズレはあるとしても、統一地方選挙の自治体ごとの選挙地区において、読売の仮説が正しければ、地方も民主党の躍進という結果になるのであろうか。まぁ、市町村長や自治体の議会議員などはそうなり得るとしても、知事選においてはどうなのだろうか。まぁ、現職強しということであれば、そうそう民主党が切り崩せるというものでもないのではなかろうか。知事選に限れば、先の参院選の結果は非常に参考となるところかと思われる。まぁ、いずれにしても今から米(兵糧)を蓄えておくことが肝心なのか。






2010/07/19 09:00
ビジネスブログ100選  士業(弁護士、会計士等)  現在 13位


いやー、暑い。やはりまだまだ灼熱ラブである。どうやら中部圏あたりまでは梅雨が開けた様であるが、ジメジメしたニュースは後を絶たない、けれどもすぐに忘れられていく。先回のおさらいなのだがカネと暴力の系譜学からの派生論のと、まぁ、それと今更ながら非実在青少年について騙りたいのだが、6/25、福岡県が全国初の表現規制として、暴力団を扱った雑誌や漫画を有害図書に指定した。例えば、実話時代 2010年 07月号 [雑誌]なんてのもそのひとつである。リンクの楽天ブックスでは、そうした背景でヒット化したのか売り切れになっているのだが(な訳ない)、要は有害図書を読んだことによりヤクザに憧れて道を極めるな! ということらしい。うーん、ま、全部で5冊ほど福岡県警が指定図書としているのであるが、リンクを見てもらうとその表紙の画像を見ることができるのだが、ばーん、と〈「福岡県警」の犯罪〉なんて記事がありそうだから、これはもう手前の都合の悪いことを書いてあるものは徹底して弾圧しようというような感じである。さて、復讐なのだが、こうした雑誌メディアも「情報の組織化」による新たな暴力、国家が独占しているはずの暴力とは別種の暴力を持っているのであるが、最終的には恣意的に国家の暴力によって回収されることも、ままあるということである。国家から分離して「情報」を資本によって組織化することで、「メディア」はある権力を有するのであるが、「労働の組織化」によって資本は膨張運動するに比して、資本により「情報の組織化」がなされることで新たな暴力、国家が独占しているはずの暴力とは別種の暴力を持つに至る、ということなのだ。まぁ、例によって暴力を権力と読み替えてもらうとして、雑誌メディアにおいても良心的な社会の福祉に寄与するような、例えば、釣り専門雑誌であるとかであれば警察権力も大目に見るのだが、反社会的な暴力団を美化するような内容のものは、たまたま条例が発効されていることをこれ幸いに規制の大鉈を振るってくる、というわけだ。これは、県警は地方組織なのだけどここは国家権力と置き換えてもらって、国家権力がいわゆるチェック権力として対峙する雑誌メディアの有する権力を、法の正義という大儀でもって反体制的と断定して規制の対象とする例といっていいだろう。ここでも法適用の恣意性という問題がある。前回は、個人が法を無視するかどうかということで、法の無効化ということを書いたのであるが、国家権力が恣意的に「犯罪」として法を適用することで罪を成立させる主体である、がために「メディア」権力に対するような無視は、個人が取りうるスタンスとならないということである。この直接的な有形力のあり方が、どこまで法のみを根拠として覊束的に行われうるか、なのであるが、法自体に曖昧性(カオス)が在り、基準や標準をどう設定しているのかが判明でない場合に、さて権力の裁量は行為として、本当に〈正しい〉のかということである。法の世界は推定無罪であると言われるのだけれども、警察という行政は法律の世界ではない。単に違反や犯罪に対して法に基づいているものとして有形力(権/暴力)を行使する主体である。行為する末端の警察職員というのはロボットではなく、過ちを犯しやすい人間である。そこの倫理としての許されるべきものに、倫理なく規制する社会的正義の根拠を明確にしない限り、法が道徳を規制するという本末転倒は、議論上では水掛け論でしかないし、権力が行使されている場面では、権力の恣意性は免れることはできないはずである。結論からして、まずこの例の場合には、過去の言論裁判、最高裁判例を規範として、条例の限界である憲法を最高位として他の関連諸法律の範囲内での規制可能性の妥当性、などから逸脱していないか、条例の濫用に当たっているのではないか等を十分に満たすとして福岡県暴力団排除条例による指定ということを明確化すべきであっただろう。単に反社会的勢力の排除において、そちらの暴力の被害を市民から護るということであるからして、市民の反対、限定して市民運動団体からの反対というものもないだろうとして、福岡県警の警察官の未だ多々出てくる不祥事から目を逸らさせるための苦渋の裁量的な有害図書指定、にしか見えないのだけれど。まぁ、非実在青少年は実在しようがないのだけれど、現実的に暴力団は実在するから対象にしやすいことも、恣意的な指定に繋がっているのだろう。で、まぁ、県の条例であるからして、福岡県内では指定がかかって本屋とかで販売できなくなるのかよくわからないのだが、福岡県内で売られてなくても、上述したように、まぁ、たまたま楽天ブックスは売り切れだけどネットショップで購入することは可能なのだから、ある意味、現代的な規制でもないのではないか、という疑念も残るところである。要するに、確かに規制しているのは事実としても、合法的に有害指定図書はいくらでも買えてしまうというのが現実のような気がするのであるが。もうちょっと深く考えると、暴力団排除という条例も本当の意味で機能するのかどうかが疑わしいともいえる。いや、このおかげで暴力団は福岡県内から一掃されるであろう。が、例えば、大紋を単に政治団体の看板にまさに架け替えただけとしたときには、有名無実ということである。そして、こうした事態があるから権力は反社会的勢力に対して、合法として犯罪を仕立てることもあり、それは反社会的勢力の域を超えて市民側にまで及ぶ、いわば捏造やでっち上げなどということは大いに在りえる話だということである。非実在の推定無罪は、実在の有名無実を再生産するがため、閾値を越え出たところで冤罪も再生産される可能性に満ちているのである。ああ、怖い、怖い。へたな会談話よりも背筋が寒くなる〈いやーいつも寒くさせるギャグ飛ばしてるからそれほどでもないか(*´д`)=з〉実話の時代だ。








2010/07/13 07:59
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第22回参議院議員議員通常選挙も終わって、民主党は44議席、野党は77議席と大敗であった。これで非改選と合わせて110議席と過半数に11議席足りないこととなる。にわかにツィられてるように、「みんなの党」と連立すれば丁度121議席で過半数となるのだが、消費税論議を又ぶり返すと、国民新党の3議席が離脱するので、危ういものである。とすれば、数年前の自公連立みたく公民連合ということになろうか。国民新党が離脱しても公民だけで125議席であるから安定政権となる。まぁ、参議院のためだけでそんな連立を成立させることこそ退廃なのであるが、取り敢えず日本の選挙制度は、一応チェック機能を果たしているといえるわけで、まだましな代表制であり得ているようだ。有権者による選挙結果のみが取り敢えず最も信頼できる世論といえるだろう。そのことは、惨憺たるタレント候補たちの当落結果からもうかがえるか。それこそ比例区ではトップの有田芳生氏と2位の谷亮子氏は難なく当選してはいるが他の候補は軒並み名簿順位が下の方なのであえなく落選である。自民では三原じゅん子とかが当選してるけど、何かなぁー。まぁ、選挙前に騒いだほどにはタレント議員は輩出されなかったといえるようである。そういえば、例の前田雄吉さんなんかは、タレント候補たちよりも順位低いものだから、当然落選してしまったわけだね。まぁ、この人、元々は衆議院議員で民主党から出てたのだけれども、08年10月にマルチ業者から献金貰ってて、国会で擁護答弁をした疑いで、あっさり自身から離党していた人なのだけれど、今回の参院選で復党して出馬まではいいけど、どうせ名簿順位は低いよなぁー、と思っていたら案の定だったのだ。まぁ、復党できただけでも御の字なのであるから、次こそ頑張ってください。まぁ、最近のサイコの予想で当たったのはどこぞのタコではないけど、2010サッカーW杯南ア大会のスペイン優勝くらいのものか。熱い夏は終わった。更に暑い夏がやってくる。


カネと暴力の系譜学  萱野稔人

ドイツ語でGewaltが暴力と権力とを意味するのに近い調子と思うと分かりやすいか、ここでの暴力とは、日本語的には権力の方がやはりしっくりくるものなのである。資本主義社会において、というかここで書かれている国家による暴力の独占、その正当化なるものは社会主義社会、共産主義社会においても同列であると思われるが、要は国家において、法の下の平等の実現という前提からその均衡を乱す者を法に基づいた強制力により処罰、排除することで暴(権)力の独占をなしうる、ということだ。後、「富への権利」、国家成立の基礎である「労働の組織化」というキーワードも出てくるが、簡単にだけ言うと、いづれも封建制において混在していた労働が、資本の運動という新しいシステムの出現によって政治的なものから経済的なものだけに分離独立を果たし、国家にたよらずとも資本によって「組織化」が可能となったのであり、封建制という政治システムの疲弊から領主や貴族が単にブルジョワに看板を書き換えただけで、ブルジョワ革命なるものによって資本主義が発生したわけではない、ということだ。少しつけ加えると、このブルジョワは大東亜戦争後の数年、否定的な意味で使われていた「市民」と同義かと思う。文字通りブルジョワ革命=市民革命だからだ。市民革命によって資本主義が発生したわけではない。
さて、大雑把に見たとおり、国家は暴力を独占したことにより、それによる脅しで国民から税という名目でカネを巻き上げている。資本の方は自前で「労働の組織化」を達成したことで、さらなる運動によって自らを増殖していく。国家が暴力の独占に特化したことによって、資本は国家に対峙したわけではなくそれを後押し、強化する手助けをしたということである。これを思うと、第二次大戦あるいは列強による植民地政策は、国家が暴力の独占を極端に拡張した形で国家どうしのエゴのぶつけ合いであったとも言えるし、大恐慌をエポケーして昨今の世界金融不安は、国家から自由になった資本が「労働の組織化」をグローバルな形で展開して加速度の付きすぎで、というか資本の増殖そのものに企業が付いていけなくて躓いた、ともいえそうだ。

さて、こうしてブログに起こしていると、現代ではもう一つの新たな暴力が増大しているはずなのである。そう、紛れも無くこうして発信するという行為そのものである。なにも罵詈雑言、暴言だけが暴力なのではない。暴力と言って分かりにくければ権力でもいい、以前に環境知能のすすめでも少し触れているのであるが、権力機構としてのグーグルという東浩紀の警告。やはり資本主義社会だけに限らず、社会主義国家、共産主義国家においても、社会体制によってその規制の緩急が異なりはするが、情報を統制する強制力を有する国家から「メディア」は形式上分離していて、資本が「労働の組織化」を成し得たごとく、資本により「情報の組織化」をも遂げることとなる。この資本を握っているのが国家であれば、それが体制の違いとなるということだ。だから、体制による違いは然程重要ではなく、国家から分離して「情報」を資本によって組織化することで、「メディア」はある権力を有することとなる、ということである。これは「労働の組織化」によって資本は膨張運動するに比して、資本により「情報の組織化」がなされることで新たな暴力、国家が独占しているはずの暴力とは別種の暴力を持つに至る、ということだ。これは大メディアに限らず所謂ネット上のこうしたブログについても同じである。検索エンジンによってその序列的表示選択順位が決定されているところに、前述の東は新たな権(暴)力を見ているということで、リアル社会とバーチャル社会がボーダーレスになってくるとバーチャルな社会による新たな暴力が侵食するリアル社会への影響をどう「処理」したらいいのか、という倫理の問題となるということである。
法の下の平等ということをよく言うのであるが、それは適用されてなんぼのものである。個人の選択の多様性を広げることは、それはそれなりにいいことであるはずで、今まで法が無い(欠缺)がために人たる尊厳を疎外されてきた者たちも確かに存在するわけで、何を恐れて保守陣営は、胡散臭く日本の伝統、文化、家族の崩壊などと、いまごろになって喚くのかが解せない。そんなもの、法制定前から、ずーーーーーーーっとプロパガンダし続けているのであれば分かるし、美しき日本のあり方というものも見えてくるはずなのであるが、この選挙前のから騒ぎというのが、どこぞの国で反グローバリゼーションの運動をしているお祭り騒ぎと同列に見えてくるのはサイコだけだろうか。まぁ、わしだけだとしても、最近ではマスゴミの「情報の組織化」による新たな暴力、国家が独占しているはずの暴力とは別種の暴力を持つということも、然程脅威ではないような感じである。というのも、資本主義社会において、昨今のような経済不安が存在している状況下では、「情報の組織化」はされても資本の運動が低調することと連動しているがため、その情報という暴力自体に差し迫った脅威を感じられないのである。まぁ、そういうこともあるし、読む人が読めば、その信憑性などはすぐに分かるわけで、情報の捉え方次第でマスゴミの有する別種の権力なども、すぐさま無力化してしまうということである。ただ、やっかいなのは、それこそ大衆に拡散されることで、各々に捉え方も一様ではないにも係わらず、付和雷同的な大衆という幻想を実体化してしまう、マスゴミの常套手段である。これを詐欺として訴えたものは稀であろうが、実体の無い、それこそバーチャルな世論という呪いをかけ続けられるがため、常に大衆は幻惑しているのである。まぁ、前の首相がブレてるとよく言われたのであるが、大衆はブレさせられ続けているわけで、焦点など定まるはずもなくて笑点とされているのだ。
ひとつ、社労士の勉強に係わらないとも思うのだが、法律を勉強している人であれば、人権問題というのに関連して、国籍条項が日本の諸法律において撤廃されているのは周知のことかと思われるのだが、例えば、国民年金法でも、被保険者の要件(任意加入被保険者を除く。)というのは、日本国内に住所を有する、20歳以上60歳未満の者、であって、どこにも国籍は要件とされていないのである。さて、これはいつからか。国籍要件の撤廃は、難民条約等が効力を生ずる日(昭和57年1月1日)に実施されているので、もう彼是四半世紀も経っているのである。なので今更、地方参政権を外人に認めることが脅威などというのも遅い話、いつの話という感じなのである。そして、連動して例えば、次の参議院選挙のような国政選挙も、外人の参政権を認めろに繋がる、みたいなことを言うアホがいるのだが、どっこいこちらはボロボロの日本国憲法に「国民(日本国籍を有する者)」しか認められていないわけで、外人の参政権を認める場合は、憲法を改正するしかないのである。憲法第96条の規定によると、「この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。 」としている。今回の民主党頽廃で参議院で憲法改正のための3分の2以上の賛成なんてとても望めないのである。
はてさて、そういうことも含意して法律は建前になるのであるが、その法律という情報も捉える個人によっては、すぐさま無力化するもので、適用するかどうかなどは、個人の自由なのである。それが全面化する場面というのは、単に裁判所であるだけのことである。新たな法が施行されただけで、今までの社会生活が一変するなどとは大げさな物言いなのである。まぁ、信念持って反対している人もいるのだろうけど、傍から見ててイタイ感じになってくるわけである。 まぁ、得てしてそうした向きは直情的なのだろうけど、生真面目が全てをよくするわけではない。これだけ「お笑い」が退廃的に蔓延していることを考えても、考えなくてもか、柔和な知恵というものが本来の日本的な知だと思うのだ。ま、も少しユニークも高いレベルに持ってきては欲しいのだけどね。

:: 整いました。 今場所とかけて、今回の選挙と解きます。そのこころは、大杯(大敗)はいただけません。賜杯(支配)を受けられません。





2010/06/30 06:11
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マルチチュード(下)  〈帝国〉時代の戦争と民主主義  アントニオ・ネグリ  マイケル・ハート

さて、前回現在の〈帝国〉時代の戦争について概略したわけだが、〈帝国〉においては、戦争というほどに国家対国家といった構図ではなく、あくまで〈内戦〉〈内紛〉として起こるため、軍事力ではなく単に有形力の行使としての警察力でもって排除乃至鎮圧されるのである。さて、そうした警察力の行使から逃れるため、まさにアンダーグラウンドでもって暗躍するのがマルチチュードであろうか? ネグリ等は案外これに関しては批判的である。例えば、イスラエルやモスクワやイラクで時々起こる自爆テロなどは、まさに生権力に対して〈生〉を賭して抗議する、あまりにも超越的な抗議行動である。生きるために死ぬ、という矛盾を孕んだ〈共〉性のための示威活動とは、不可分的に宗教という〈共〉性にあってそれこそ原理主義的な行動として隠蔽されてしまう。破壊そのものが非生産的であるばかりでなく、〈私〉と〈共〉を結ぶ線は超越的に保存されながらも、現実に〈生政治〉的な意味では死滅してしまうわけだからである。この破滅を救う手段として、ネグリ等は、世界各地で展開され/た、種々の運動を紹介している。アメリカにおけるブラックパンサー党による黒人解放闘争、イタリアにおける反グローバリゼーション運動であった「白いツナギ」運動、メキシコにおけるサパティスタ民族解放軍のネットワーク状なゲリラ闘争、そして1999年にシアトルで行われたWTO閣僚会議での抗議行動などなど。

 新グローバル秩序はまだ一度も三部会の集まりを開いていないし、さまざまな身分からなる全地球の住民に陳述書を提出するよう求めてもいない。だがシアトルを皮切りに、グローバル化に反対する人びとはグローバル機関のサミット会議をいわば即興のグローバル三部会へと変容させ、求められずとも自主的に陳述書を提出しているのだ。〈マルチチュード(下)P164〉

三部会とは、ルイ16世の時代、フランス革命前夜に決裂したものをアナロジーとしている。ルイ16世の求めに応じて4万を超える陳述書〈カイエ・ド・ドレアンス〉が提出されるのだが、この不満と三部会の議会形式に対する不満が爆発して、そのままフランス革命へと進展していくのである。ネグリ等は、この〈即興のグローバル三部会〉の後にマルチチュードによる革命を暗示していると言えよう。
かくして、マルチチュードの闘争は全世界的に止揚するのであろか。このまま〈帝国〉は生権力を行使しきれずに崩壊するのであろうか。最近の一例から、ギリシャの経済危機であるが、大規模なゼネストは行われたのではあるが、それだけである。銀行に火炎瓶が投げ込まれ3人が死亡などとは、先述した自爆テロよりも酷い。こうしたマルチチュードの一部過激派による行動は、〈帝国〉の生権力に補完的な作用を及ぼす。警察力の行使に大儀を与えてしまうのである。しかしながら、死者が出たから酷いとサイコは書いたのだが、死者が直接的には出ていない先述のシアトルWTO閣僚会議反対デモでも一部による破壊行動があり、そのメディアを通じての世界発信に対してはネグリ等は肯定的であったりする。多少の派手さは必要としているのだ。まぁ、いずれにせよ、正統的にそうした直接的非生産性を行動せずに済ますとしても、未だ世界的な止揚にまでは至っていないようである。まだまだ陳述書は提出され続けなければならないということであろう。
さて、そうした陳述書の提出行動においての戦略とはいかなるものか。ネットワーク状の生権力に対しては、ネットワーク状の抗議行動ということなのだが、ネグリ等は出エジプト記を引いて「逃走せよ。だが逃げながら武器を取れ!」としている。ギリシャ、アテネでも仕事がなく、仕事を求めて国外に流出する者たちもいることであろう。これは、ポリス〈都市〉においてポリス〈警察〉の弾圧から逃れるため国外にエクソダスする、というふうにも言える。その時、逃走する背後から敵が襲ってくるため、いかんせん武器を携えて逃げる、ということである。はて、その武器とは。間違っても火炎瓶でないことだけは確かである。
・力や暴力を民主的に行使することとは。
第一原則 暴力を政治に従属させることは、暴力の民主主義的な使用にとって必要条件。
第二原則 暴力を防衛のためにしか用いない。
第三原則 暴力の使用も民主的に組織されなければならない。
さて、この本の結論というのが〈真に政治的に愛の行動〉ということである。少しロマン主義的なところもあり、この結論はちょっとずっこけたのであるが、監修者である水嶋氏の解説に、「愛を政治的行動として再建しようとするネグリ&ハートの言葉は、カップルや家族といった私的領域に愛を閉じ込めたり、あるいは愛を欺瞞的に振りかざすことによって社会的敵対性をかき消そうとしたりする(それ自体が政治的な)身振りになれた今日の多くの人びとに、冷笑を持って迎えられるだけかもしれない。(P274)」と断った上で、スピノザにとっての愛が、「他者との出会いを通じて力能と喜びを増大させていくような限界なきネットワークを指示する」政治的概念であるとしている。あくまで多数多様性に開かれたマルチチュードのプロジェクトとは、愛のプロジェクト、愛の実験としている。やっぱり愛は必要なのである。





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